<「合弁会社」での「地下党組織活動」>
・中国には日本の会社が3万社ある。独立会社・日中合弁会社・日台合弁会社・日香合弁会社などであるが、それらの現地企業の中には当然「中共地下党組織」が作られ、情報収集のみならず企業が反中共活動をしていないかどうか、チェックし共産党中央に報告することを任務としている。
・筆者は、幼年時代から大学まで、中国の教育を受けてきたが、「南京大虐殺30万人」などということは一切教えられていなかった。なので、中国の教科書に「南京大虐殺」が載っていると知った時には、非常に違和感を持ったものだ。筆者のように外国に出た者は、まだ冷静なものの見方ができるが、そうでない場合、自分の働く日本企業を敵視し、「地下党」員として活動することになんらの痛苦も感じない。こうした工作を、中共は「文化戦」と称している。
・最近では日本に帰化した中国人だけで12万人を超えており、彼らには当然選挙権が与えられている。これに永住許可者を含めると、中共のコントロール下にある者の数は膨大で、実に恐ろしい動向である。では沖縄はどうか。永住外国人に参政権を与えようなどと言っているくらいだから、中国からの帰化華人の数など真剣に考えたことがないだろう。しかし、これは間違いなく脅威である。
<日本の経済援助が中国のスパイ活動を巨大化させた>
<南京大虐殺が1979年までの中国歴史教科書に一切掲載されていない不思議>
・まさに、外国人の目から見ても、当時の日本人の記録を見ても、略奪や殺人を犯していたのは中国兵のほうであり、日本軍ではないのである。
それにしても、人口20万人の都市で30万人を虐殺するなど神様も不可能だ。
<中共は中国人のいる場所すべてにスパイを送り込む>
・従って、全軍のなかで、スパイより高級なポストはなく、スパイより機密なポストはない。さらに、すぐれた知恵がなければ、スパイを使いこなせないし、人徳がなければ、よく動かせず、洞察力がなければ、もたらされた情報の真偽を判断できない。
『小野田寛郎の終わらない戦い』
戸井十月 新潮社 2005/7/30
<「中野学校」という異界>
・日本には天皇制がある。それを盲目的に崇拝するんじゃなくて、何故、そういう形態になったのかを教えられた。だから、『天皇機関説』もちゃんと教えられた。政治学としては、これはこれで間違ってはいない。そういう見方も確かにできるって。天皇が現人神だった当時、そんなことを言ったら大変だったんですけど、中野学校では普通に話されていた。
・何ごとにつけ、悪い所があれば躊躇せず変えてゆく。それが、まともで確実なやり方じゃないかというのが、中野学校の考え方の根本にあったんです」
・番号の入ったプリント刷りの教範は、授業が終わると全て回収された。日本が連合軍に占領されることを予想して、「中野学校」の幹部たちは準備をしていた。小野田たち二俣分校一期生の230人は、日本本土に敵の上陸を許した後の状況を想定して育てられた若者たちだった。
・「すでに私たちは、アメリカが原子爆弾を研究していることも知っていた。日本でも研究中だが、向こうは金があり、研究グループも多いから、日本よりかなり進んでいるという情報であった。噂に近い未確認情報ではあったが、私たちはその恐るべき爆弾がやがて登場するだろうことも予想していた」
・「そうですね。日本が占領されることまで織り込みずみだったんです。でも、それで日本が負けるわけではない。日本の80万の陸軍は中国大陸で戦い続け、ベトナム戦争の時のような結果が出るまでアメリカと戦い続けるという青写真だった。そういう戦略というか、計画のもとにフィリピンに送られたんです」
・小野田に、横山静雄中将が言った。
「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が一人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」この言葉が、それからの小野田を縛り続けることになる。
<「ブラジル」という戦場>
・ブラジルに渡った小野田は、まず514ヘクタールの土地を購入する。場所は、ブラジル中西部、南マットグロッソ州バルゼア・アレグレ移住地。ボリビアとパラグアイとの国境にも近いそこは、広大な南米大陸の、最も海から離れた内陸最深部に位置する。1959年に入植した日系移民を除けば、普通の日本人が訪れることなどまずない土地だった。
・育てる牛は、ネローレ種と呼ばれる、インド原産の肉食用コブ牛。牛が売れたら(現在の価格で、1頭5万円ほど)その3分の2が利益になると言われる牧畜業だが、そうなるまでに普通6、7年かかる。最初の1年が伐開と牧草栽培。牧草が育って種が結んでから2歳の末産牛を放し、その牛が出産するまで1年。そして、産まれた牛が肉食牛として売れるまで育つのに4年から5年。その間は、開拓作業や設備投資に追われるばかりで収入はゼロに近い。
・現在の「小野田牧場」は、成田空港より少し広い1128ヘクタールの土地におよそ1800頭の肉行政を放している。小野田は大したことないと言うが、普通の日本人の感覚なら茫漠とした広がりだ。牧柵の長さ48キロ、深さ150メートルの2本の掘り抜き井戸から各水槽への配管は8キロに及ぶ。牧場開拓はもちろん、暮らしに必要なインフラまで、小野田は自分で学び、自分の体を使って整備していった。
・バルゼア・アレグレ移住地は、1959年に入植した9家族、54人によって拓かれ、その後、約50世帯になった。
・移住してからの7年間は電気もなく、ランプで暮らした。小野田は、護身用と狩猟用に4丁の銃を持ち、ジャガーや大蛇の襲撃に備えた。軽機関銃を手にして牛泥棒と対峙したこともあった。それは、ルバング島での日々とあまり変わらない暮らしだった。唯一決定的に違っていたのは、誰から命令されたわけでもない、自分で選んだ戦争だった点だ。
「帝国陸軍最後の軍人」が守り通した秘密
斎藤充功 学研 2015/5/27
・軍服を脱ぎ(昭和18年以降になると軍服で勤務した卒業生がほとんどであった)。背広や現地人の服装をまとい、中国大陸や満州、北方、南方地域などの日本軍が進出した全戦線で謀略戦や情報戦、あるいは諜報戦、宣伝戦、遊撃戦(ゲリラ戦)などの特殊工作を展開したのが、中野学校の卒業生たちであった。
・それから6年後の2014年(平成26)1月16日、肺炎で小野田はこの世を去った。91歳だった。結局、小野田の口からルバング島の知られざる真実を聞くことはできなかった。
だが、小野田が発したあの言葉は、その後も私の頭から離れることはできなかった。
「ルバング島のことだが、今まで誰にも話していないことがあるんだ・・・・」
もしかしたら、小野田は誰にも話していないルバング島での29年間の真実を、ルバング島の極秘任務の真相を私に話してくれようとしたのではないか――。
ここから小野田寛郎の真実の姿を追跡する取材が始まった。
小野田はあのとき、私に何を話そうとしたのだろうか。
そして、小野田はルバング島で29年間、いったい何をやっていたのかーー。
・堀の記述をみれば、情報班の別班の任務はスリリングだったことが窺える。そして、山路長徳少佐が指揮する「山路機関」が、1942年(昭和17)末、敵の女性スパイを確保して、“2重スパイ”に仕立て上げたという秘話も、堀は同書で次のように書いている。
本間兵団(注・第14軍の軍司令官で戦後、処刑された本間雅晴中将の指揮する部隊)がマニラに進入したとき、軍参謀の部屋から本間兵団の重要書類を盗もうとした、英国の仏人系美人スパイのリタを捕えて、これに整形手術をさせ、別人の顔に仕立てて遂に日本のスパイとして、マッカーサーが比島から退却に際して残していった米軍の残置諜者を暴き出し、これに徹底的な打撃(主として処刑)を与えたのも山路機関であった。(注は著者)
中野学校は「謀略は誠なり」の精神を教育理念としていたが、堀の記述にもあるように、戦地では、スパイ活動によって拘束した敵の工作員を処刑していたことも明らかにされている。
・30万を超える兵力を要していたとはいえ、堀の分析によれば、方面軍の戦力は兵員、火力ともに米軍の3分の1程度の戦力しかなかったとされる。このような戦況下にあったフィリピン戦線へ小野田らは派遣されたのである。小野田が着任したのは、方面軍参謀部情報班だったが、正式な申告は、マニラから南に100キロほど離れたリパに司令部を置く第41軍隷下の第8師団(弘前)だった。この師団はルソン島南部を防衛する中核師団として奮戦しているが、終戦直前には米軍によって全滅寸前まで追い詰められていた。最後の師団長は、第41軍司令官兼務の横山静雄中将(陸士24期)だった。
<残置諜者としての戦い>
・潜伏を決して以降の小野田は、中野学校で仕込まれた諜報員としての本領を発揮し、部下3人を率いて島内で残置諜者としての活動を開始する。
かき集めて所持していた武器・弾薬は「38式歩兵銃3丁、99式小銃1丁、14年式拳銃2丁、軍刀1本、手榴弾8個」で、実弾は「歩兵銃と小銃弾合わせて2300発、ルイス式旋回機銃弾600発(飛行機搭載の機銃)」(『たった一人の30年戦争』より)だった。小野田らは、これらの武器と装備で米比軍と交戦するつもりでいたが、実戦を経ずして日本は無条件降伏した。対米戦争に日本が負けたという情報を、小野田が半信半疑ながら知ったのは、米軍機から撒かれた“降伏ビラ”によってだった。1945年(昭和20)10月末のことである。
<帰国後に巻き起こった空前の“小野田ブーム”>
・フィリピンにおけるすべてのセレモニーが終わってから3日後の、1974年3月12日午後4時、小野田は日本に帰還した。
当日羽田国際空港の第2スポットに、日航機326便は駐機した。空港の送迎デッキには、小野田の帰国を祝う7000人を超える人々が、手に手に日の丸の小旗を振って、万歳を三唱していた。
・複雑な心情に揺れ動いていた小野田を尻目に、報道合戦はますます過熱していった。そんな最中に舞い込んだのが、週刊誌『週刊現代』からの手記の執筆依頼だった。講談社が所有する伊豆の別荘で、口述筆記するゴーストライターと生活を共にしながらの執筆だった。
1974年(昭和49)7月にスタートした連載のタイトルは「闘った 生きた」。帰国からわずか4ヵ月後の手記連載という、異例の速さだった。
だが、帰国後の猛烈な環境の変化で小野田は心身ともに疲弊したため、日本の生活に嫌気がさし、帰国から半年後には次兄が経営しているブラジルのマットグロッソにある牧場に、雲隠れしてしまった。
<シ―グレーヴが説く「山下財宝」伝説>
・フィリピンの金塊にまつわる有名な話に「山下財宝」伝説がある。
山下奉文大将率いる日本軍が、終戦時にフィリピンの地下に莫大な量の金塊を埋め、戦後に引き上げようとしたものの、そのままの状態で眠っているという、いわば都市伝説のような話であり、戦後も詐欺話の枕詞として流布してきたという経緯がある。
・第2次世界大戦末期、日本軍はアジア各国から略奪した金・財宝をフィリピンに隠したというのである。
<フィリピン金塊譚と小野田寛郎の接点>
・そして“奇譚”ともいうべき、フィリピン金塊譚のバックボーンに関して、1章を割いてまで検証した理由は、小野田寛郎の知られざる任務、つまり、彼が日本が敗戦したという事実を知りながら、ルバング島に潜伏し続けた理由と密接に関係するからである。
山下は取材の際、私にこう言った。
「フィリピンには、ふたつの種類の金塊がある事実を認識して頂きたいのです。ひとつは、“機関”によって計画的に隠匿された大量の金塊。もうひとつは、軍によって隠された軍資金です」
ふたつの金塊譚が合体して、途方もない量の金塊がフィリピンに眠っているという「山下財宝伝説」が形成された。
・そして、シーグレーヴは『GOLDWARRIORS』で、小野田の任務を“皇族によって隠匿された金塊を監視すること“だったと書いた。しかし、私は中野学校関係者の取材を通して、小野田に課せられた任務は、シーグレーヴが説く任務とは違うものだったのではないかという考えに至った。
では、小野田の任務とは何だったのか――それは、山下の証言にあった“軍によって隠された軍資金”を守ることだったのではないか。そして、その軍資金とは、“マル福金貨”と呼ばれた、ゴールド・コインだったのではないか…………。
<運命のゴールド・コイン――マル福金貨>
<「福」という文字が刻印された金貨>
<「彼の使命はマル福金貨を守ることにあったと思う」>
・――小野田さんのルバングでも本当の使命は、何だったと思いますか。
Kは「推論だが」と前置きしたうえで答えた。
「残置諜者としての任務を果たしたわけです。しかし僕は、彼の本当の使命は、“マル福金貨”を守ることにあったと思う。
戦地は終戦末期になると軍票はまったく使えず、物資の調達はマル福(金貨)でやっていた。杉兵団がルソンからルバングにまる福を運び込んだのは、尚武集団の命令で軍資金の安全を考えたうえでの秘策だったと思う。目的は軍資金の隠匿。ちょうど、小野田が派遣された時期に運び込んだのではないか」
<師団司令部から届いた“重要なブツ”>
・小野田が「日本は戦争に敗け、終戦を迎えた」という事実を認知していたことはまちがいない。にもかかわらず、日本の敗戦を認知していた彼が、ルバング島に29年間も潜伏し続けていた理由は、我々が与り知ることのできない“特殊な任務”を彼が背負っていたからだとしか考えられない。
その“特殊な任務”とは何か――それが、前出のKの証言にもあった「マル福金貨を守ること」だったのではないか。
<“虚像”という重い十字架>
・小野田は昨年1月、入院先の築地・聖路加国際病院で91歳で亡くなった。
1974年3月に帰国して以来、小野田は自身の思惑とはまったく別の次元で創られた「英雄・小野田寛郎」という“虚像”を、あらゆる場面で演じ続けてきたのではないかと思う。
・小野田寛郎は、29年間、ルバング島で何をしていたのか――。
この問いに対する私の見解はすでに述べた。山下の見解が正しいのか私の見解が正しいのか――それは読者の判断に委ねたい。いずれにしろ、本書で明らかにした小野田の実像は、残置諜者としての任務を全うした、命令に忠実な、紛うことなき「帝国軍人」であった。その事実はけっして揺るがない。
29年間の潜伏と引き換えに小野田が得たものは何だったのだろうか。ブラジル移住の資金も、隠匿された金塊から得たという話も一部では囁かれた。しかし、それは違うだろう。当時、出版界で小野田の手記の印税は「数千万円から1億円」と噂され、話題となった。おそらく、移住の資金は手記の印税から捻出されたはずだ。
『天皇の金塊』
高橋五郎 学習研究社 2008/5
<明治以降の日本における最大のタブーと欺瞞>
・「金の百合」と称せられる“巨大資金”がわが国には隠匿されている。戦争を繰り返した大日本帝国が、“天皇の名”のもとにアジア各地から強奪した戦利品の集大成である。現代の日本社会をも動かしつづけているという、この略奪財宝の実態とは果たして何なのか?{金の百合}を軸に見えてくる、これまで決して語られることのなかった、明治以降の日本における最大のタブーと欺瞞を白日のもとにさらす。
・繰り返すが、ほぼ150年前のいわゆる“近代ニッポン”の始まりは国民のための近代社会の始まりとはまるで無関係だったということだ。要するに明治維新を革命と讃えている間は、大正・昭和・平成と続く時代の真実は見えないようになっているのである。
<ヒロヒト名義の大量金塊がフィリピン山中に今も隠匿>
・「あの戦争の最中も、昭和天皇のマネーはバチカン系の金融機関で運用されていたものだったよ」。私が元ナチス・ドイツのスパイ(スペイン人ベラスコ)から、昭和天皇の名義とされる「天皇の金塊」=秘密マネーがバチカン系の銀行で運用されていた――こんな話を聞かされたのは1980年(昭和55年)の初頭だった。
・ベラスコ(南欧系、熱血漢)は戦時中、戦費の調達目的で秘密交渉を担当したナチス親衛隊大将で保安諜報部外務局長の「RSHA」ワルター・シューレンベルグ(北欧系、青白き天才)と共によく銀行に出向いていた。訪問先はドイツ国立銀行ライヒスバンクとスイスに新設された銀行――金塊を担保に、参戦国全ての戦費融資に協力する唯一の“戦時”バンク、国際決済銀行(通称BIS)だ。
・ドイツ国防軍情報部(アプヴェール、長官カナリスはシューレンベルグと犬猿の仲)に所属するベラスコはSSシューレンベルグの活動エリアよりも広く、ドイツ国内はもとよりスペイン、イタリア(バチカン教皇国)、日本も含んでいた。
・ベラスコが機関長を務めた情報機関(TO)は、歴史と宗教上の経緯から南米スペイン語圏の大小の諸国と太平洋の島嶼フィリピン諸島を活動の範囲に含んでいたのだ。
・私はベラスコが勿体をつけて語ったバチカン・マネーの話を聞いてからほぼ数年後の1988年頃、今度は乾き切ったシュールな金塊話を日本人の国際金融ブローカーたちから聞かされることになる。それは昭和天皇(日本皇室)所有で知られた金塊が天文学的規模で現在もフィリピン山中に隠置されているというもの。天皇家名義の金塊のほかにバチカン名義の金塊も含まれるともいう。
<“霞ヶ関埋蔵金”こそ実は「天皇ファンド」「天皇の金塊」の利息分>
・福田新総裁が誕生して、民主党が参議院を制している環境のなかで道路特定財源の扱いを巡る攻防が喧しい。そんな中で元自民党幹事長の中川秀直が「予算が足りなければ“霞ヶ関埋蔵金”を使えばいいじゃないか」と発言。これが2007年(平成19年)末の永田町のちょっとした話題になった。中川のいう埋蔵金はいわゆる「M資金」などとも呼ばれた出所不明の部類の資金のことなのだが、それについて新聞はもとより、政府実力者たちすら本当のこと=「金の百合」をまったく知っていなかったようだ。
<マルコス大統領が「金の百合」を換金するには黄金商売人一族の裁可が必須>
・フェルディナンド・マルコス。彼は一介の弁護士からフィリピン大統領に成り上がった立志伝中の人で、大統領の座を「金の百合」資金で買い取った人物でもある。その後ろめたい秘密を炙りだす最初で最後のキッカケが「マルコス裁判」だった。マルコスはこの裁判で大統領の座から失墜する。民間人の山師が掘り起こした「金の百合」の一部をマルコスが強奪したことから争われたその民事訴訟裁判は、マルコス被告に賠償金430億米ドルを支払わせた。
・賠償金の原資もまたマルコスが地下サイトから秘密裏に回収した「金の百合」の一部が生み出したカネで賄っている。マルコスが大統領時代に地中から回収して換金、内緒で懐に入れたカネはおよそ1兆6300億米ドルにものぼっていた。
<「黄金ファンド」は「四ツ谷資金」「キーナン資金」「M資金(吉田資金)」>
・「黄金ファンド」(基金)は、1946年1月19日の“東京裁判”(極東国際軍事裁判)をまるで待ちかねていたかのように動かした。裁判向けの経費支出は、フィリピン山中から初めて金塊を堀り起こしたアメリカの将官(前述)であったサンティとランスデールの上官で日本占領軍司令部G-2のチャールズ・ウィロビー将軍が担当した。ウィロビーは「黄金ファンド」を「四ツ谷資金」「キーナン資金」、そして、のちに両資金を合体させる通称「M資金」に分けて支出した。「四ツ谷資金」とは当時の歓楽街で、無法者がはびこる新宿四ツ谷界隈をもじった呼び名だといわれる。
・たとえば、中国、満州それに朝鮮半島方面にスパイを送り込んだり、国内の左翼活動家や団体を弾圧する指揮現場が四ツ谷周辺にあったからだとも言われる。基金は反共作戦に動員する右翼活動家や暴力団を支援する資金にも使われると同時に、左翼勢力にも裏面で渡された。日本の共産党が戦時下も戦後もアメリカ共産党と教会経由の資金援助で活動していたことはよく知られている。
<昭和天皇の国師、三上照夫は物理霊媒の亀井三郎と双璧の博士>
・三上は毛沢東、周恩来の学者ブレーンたちと協議して日中国交回復時の対日賠償請求を中国側に断念させた人物だ。三上は3人のニッポン人国際法学者を同行、中国側の専門家たちとの間で日中の歴史(戦争)問題を事前に片付けて田中角栄の訪中をスムーズにした。
・その外交交渉の裏舞台で三上は「兵馬俑の共同開発をしないか」。中国側からそんな話を持ちかけられた。三上が共同発掘を断った理由は「地中に意念が残されていて危ないからだ」とのことだった。ここで、国師三上照夫の人物像について、三上を慕った周辺の人物たちが知る範囲と、三上が私に直接語ってくれた範囲で説明しておこう。
・終戦時、三上は大正から昭和にかけて活躍した京都の仏教学者(文学博士)でのちに禅の巨匠と呼ばれる今津洪嶽(1841-1965)の愛弟子であり、ユダヤ・キリスト教の経典をへブライ語で通読する若者の1人として、皇居に招かれて昭和天皇にユダヤ・キリスト教とは何かを進講している。
<三上が物理霊媒力を備えた若者だったことを知る人は少ない>
・日本で稀有な能力が研究者の手で改めて明かされた人物は昭和初期のいわゆる物理霊媒師の亀井三郎。本稿はすでに故人になった亀井三郎の超能力者ぶりを例に、三上照夫が備えた物理霊媒能力を説明しておこう。物理霊媒という超能力は、たとえば物体に手を触れないでその物体を空中浮遊させたり、距離と無関係の遠い場所にある物体やあらゆる状況を鮮明に透視する能力のことだ。こうした超能力を三上は備えていた。
・1923年(大正12年)日本心霊科学研究所を創設した浅野和三郎は、亀井三郎の超能力ぶりを知り、人物亀井の出現はペリー提督の黒船登場にも勝る、と驚嘆したと伝えられている。ちなみに浅野和三郎は日本心霊科学の父と呼ばれた人物だ。
・亀井は彼らの面前で数種の楽器を空中浮遊させ、それぞれの楽器から音を鳴らして見せた。また床に置かれた紫檀製の重いテーブルを空中に浮揚させ、そのテーブルを数人掛かりで床に引き戻させたが、テーブルは天井に張り付いたまま動かなかった。
・昨今のテレビ番組が紹介している「超能力者」たちのそれらのようにも見えるが、亀井の能力は似て非なるものだった。亀井には心霊の存在をカタチで現す能力もあった。霊媒亀井の鼻孔から溢れ出る白い固形の流動物に人間の顔写真(いわばプリントゴッコに写った写真)のシールを貼ったような著名な人間の顔が次々と現れる霊力だ。
・専門家たちはその現象をエクトプラズムと呼んでいる。つまり、見えない霊を見えるカタチに変える物質化現象のことだ。亀井は心霊人間であって娯楽向け手品師ではない。超能力ぶりを示している場面は大手新聞にも掲載されている。
・三上照夫は文学博士、経済学博士で、東大・京大・大阪大教授を歴任し、佐藤から中曽根まで7代、22年間内閣ブレーンを務めるとともに、亀井三郎と同じ古神道の世界に生きる“超能力者”だった。その三上に亀井は接触、三上が主宰する古神道系団体「御上教苑」で活動した。亀井は自らも神霊界や古神道の勉強道場「白日教苑」を支援者を得て進めていたから三上とはすぐに共鳴した。
・「先生(三上)は私が娘時代に8畳間ほどのお部屋で私の父とお話をされている間に、お部屋の片隅に置いた私の人形を、お部屋の反対側の隅っこに手も触れずに移動させました。私は驚きましたが今はもう驚きません」
1992年頃、私は三上が上京するたびに三上身辺のお世話係を務めている中年女性からこの話を聞いた。私は天皇の国師三上がそれまで黙して語らなかった三上の一部を知ったものだった。
<「黄金ファンド」の存在と活用法を熟知の三上照夫は松下幸之助や歴代総理の指南番>
・三上青年がGHQ占領中の皇居訪問以来再び皇居に招かれて天皇の国師として仕えてきた事実は現在もごく内輪の関係者が知るのみだ。早すぎた晩年を迎えて鬼籍に入った三上が、その直前に自身から実は、と天皇に仕える立場を語ったのを聞かされた内輪の人々のほかには知られていない。天皇の侍従長、入江相政が三上を大切にしたという説とその逆の説もあるが、真実を知る者はいない。
・三上は次の皇太子徳仁(浩宮)親王の先生役を再び務めるつもりだと私に嬉しそうに語っていたものだった。昭和天皇の国師のみならず佐藤栄作首相からその後に続く歴代の首相の相談に乗ってきていた。
・三上に相談を続けてきた実業家の1人に松下幸之助がいた。松下は三上から「帝王学」を15年間教えられてきた。佐藤政権以来の大蔵、通産、外務など主要各省の上級官僚たちも毎年正月には、内政、経済、外交などの見通しを三上から示唆されていた。
・三上は「黄金ファンド」の存在と活用方法をよくよく心得ていた。三上の周辺のごく内輪の人も「黄金ファンド」(秘密資金)の存在を知らなかったが、三上がしばしば口にする「産業育成資金」(前出)については周辺の人々も頭の中では知っていた。周辺の人々はおそらく今も、三上が口にしたアメリカに積んである「産業育成資金」、それが「黄金ファンド」のことで、“天皇マネー”に端を発した秘密資金だとは気づいていないだろう。
小野田 寛郎(おのだ ひろお、大正11年(1922年)3月19日 - 平成26年(2014年)1月16日)とは、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。
情報将校として大東亜戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、戦争終結から29年目にしてフィリピン・ルバング島から帰還を果たす。